統合失調症の躁状態は、脳神経細胞に悪影響?

「お先にお昼頂きました」と、アリサちゃんが昼休みから戻ってきた。分かり易くふくれっ面をしている。

 

「川村さん、聞いて下さい。栄養科の友達とランチしてたんですけんど、研修医の中村先生は、36歳で変わり者らしいです。全然かっこ良くないみたいです。精神科志望らしいですけんど」

 

「アリサちゃん、36歳で研修医ってどうして?」

 

「社会人して、医学部入ったから、今36歳らしいです。すっごい変わり者らしいですよ」と、口を尖らせて言っている。

 

「アリサちゃん…。変わり者って、見方は人それぞれだし…」

 

「分かってますけんど。年も離れてますし…。興味がなくなりました」

 

アリサちゃん、清々しいくらいに正直。

 

 

 

「川村さん、そういえば、一人、パーソナル障害の患者さんに服薬指導をしてもらってもいいですか?」

 

え?パーソナリティ障害?

 

「岡林さん、パーソナリティ障害の患者さんって、私の手に負えますか?」

 

「大丈夫です。お願いします。」と、岡林先輩がほほ笑む。

 

本当に大丈夫なんだろうか。

 

 

パーソナリティ障害の山内さん。女性。

 

えーと、家族自体もなかなか…。

 

父親はアルコール中毒で、母親はヒステリック、弟は自殺していて、姉は3回離婚していてホステスをしている。ホステスって、美人なのかな?

 

すごいな。私は一回も結婚したことないのに、3回も結婚して、さらに離婚まで。

山中さん自身は結婚歴はなし、水商売をしている。身体中に入れ墨あり。リストカットでなんどもERに来ている。

 

薬は、抗うつ薬と頭痛薬とイライラ時の頓服薬。

では、病棟に上がろう。

 

一歩薬局から出ると、なんだか騒がしい。

私がドアを開けたので岡林先輩も外の騒がしさが聞こえたらしく、薬局から出てきた。

 

急に岡林先輩の顔色が変わって、いきなり走り出した。

 

よく分からないけど、岡林先輩を追いかける。

 

病院を出てすぐの道路で身体の大きい男の人が叫んで暴れている。

 

何かあったの?

 

男性の看護師長や男性の看護師が沢山集まっている。

 

立山君…、また…。」と、岡林先輩が悲しそうに唇を噛んでいる。

 

男性の看護師達が集まって、暴れていた患者さんを病院に連れて入った。

 

 

岡林先輩を振り返る。

 

え?泣いてる?

 

「岡林さん、お知り合いですか?」

 

「ええ、患者さんです」

 

「岡林さん、涙が…」

 

「あ…、ごめんなさい。ちょっとトイレに行って来ます。すみません」

 

 

よく分からないけど、病棟もきっとバタバタしているだろうから、山内さんの服薬指導は明日にした方がいいのかな。

 

どうしよう。とりあえず、薬局に戻ろう。

 

 

数分して岡林先輩がいつもの表情で戻ってきた。

 

「岡林さん、あの…。山中さんの服薬指導、今日は行かない方がいいですか?よく分からなくて…」

 

「そうですね。急ぎませんし、明日にしましょうか」

 

いつもの岡林先輩に戻っていてくれてほっとした。私、あんまり臨機応変に動けるタイプではないので…。

 

「川村さん、先ほどはすみませんでした。あの患者さんは、立山さんという30歳の統合失調症の患者さんです。

いつもはすごく優しい人なんですが、薬が嫌いで…。

 

退院して薬を飲まなくなると躁状態になってと暴れてしまうんです。体格も大きいですし、ちょっと暴れても大事になってしまいます。毎回、躁状態で暴れて運ばれてきます。

 

前もお話ししましたけど、激しい躁状態が続くと脳が器質的に変化してしまう可能性が高くなるので好ましいことではないんです。

 

私の印象だけですが、立山さんの知的レベルや忍耐力がだんだんと落ちている気がします。

落ち着いている時は、本当に優しい穏やかな方なので、とても残念で悲しくて…」

 

そう言って、いつもの様に病棟に上がって行った。

 

 

岡林先輩が病棟に上がって数分すると、事務長が怖い顔で入ってきた。何?

 

「岡林さん、大丈夫?」

 

「ええ? 岡林さんは、たぶん…、今、病棟…」

 

単語しか出ない。怖い。

 

「そう、まあ、気にしない様に。」と、言って出ていった。

 

あなたが来た事を気にしない様にしたらいいの? 何?

 

いつの間にか、市川主任が側にいた。

「なんだか怖いわよね。けっこう優しいのに、あの顔でどれだけ損してるか。川村さん、大丈夫?」

 

「あ、はい。大丈夫です」

 

そうなんだ、岡林先輩を心配してわざわざ来たんだ。優しい人なんだ。

 

「川村さん、事務長が来た事は私から伝えておくから。」と、ほほ笑んでくれる。

 

しばらくして、いつもの様に市川主任が声をかけてくれる。

 

「そろそろ終わってね。」

 

今日の騒ぎは私には全く関係ないのに、なんだか疲れた。

 

いつもと変わらない市川主任に和ませられる。変わらないって素晴らしい。

新型うつ病の永山さんが入院生活を満喫できるのは、一時の幸運?

薬局に戻ってきて、岡林先輩に声を掛ける。

 

「岡林さん、終わりました。なんだかぼんやりしている人でした。」

「とらえどころがなかったですか?」

「そうです、糠に釘っていう感じでした。」

新型うつ病の人は、そういう人が多いです。あの人は生活リズムを整えることと、社会的なサービスの選択のために入院している人です。」

 

「社会的なサービス?」

「例えば、生活保護訪問看護、作業所、デイケア、障害者雇用で就職などですね。

つまりは、今後の身の振り方をどうするかです。永山さんのレベルであれば就職できると思います。

仕事がなければ引きこもるでしょうし、そうなればご家族も心配されますからね。給料が安くても、生活保護であっても、独り立ちできることが一番大切なことです。」

 

「岡林さんは永山さんに会ったことがありますか?」

「ええ、いつもホールで女性の患者さん達と一緒にお話ししていますから。何度もお見かけしています。今の入院患者さんは穏やかで優しい方が多いので良かったと思います。

パーソナリティ障害の患者さんが多い時に永山さんが来られていたら、永山さんはかなり辛い思いをしたと思います。」

 

「パーソナリティ障害の患者さんは怖いんですか?」

「パーソナリティ障害の人は、自分の行動が相手にどういう影響を与えるか想像できないので、自分の感情のままに動きます。ですから、パーソナリティ障害の患者さんがイライラしている時に永山さんに出会ったら、おそらく何かしら永山さんが傷ついてしまいます。」

 

「パーソナリティ障害の患者さん、要注意ですね。」

「パーソナリティ障害の患者さんが皆さん怒りっぽいとか、他人に強く当たる訳ではないのですが、永山さんは傷つきやすいので・・・」と、岡林先輩が力なくほほ笑む。

傷つきやすいって、うーん・・・、永山さんって39歳ですよね? 精神科の患者さんだからなの?

 

岡林先輩は、性善説を信じている人なんだということが、言葉の端々からも分かる。罪(病気)を憎んで人を憎まず。

 

精神科はちょっと気を抜くと差別の対象になってしまうから、私に対しての説明でも必ず『個人差はありますが』というフレーズを良く使う。それでも、さっきの岡林先輩の表情から、パーソナリティ障害の患者さんへの対応に難渋しているのが分かる。

佐竹さんの言うとおり、岡林先輩も悩んでいるんだな。

最近はやり?の新型うつ病・・・、健常者と病人の境界線は何処に?

永山さんのカルテを見る。

 

永山さんは男性で39才。新型うつ病

新型うつ病のことは、岡林先輩に借りた本にも載っていた気がする。でも内容をよく覚えてない。

 

永山さんの職歴は、特に書かれていない。

母親と姉と暮らしている。

 

永山さんのことが全く想像できない。

 

「岡林さん、ちょっと聞いてもいいですか?」

「もちろんです。」

「この永山さんは新型のうつ病らしいんですけど、新型のうつ病が良く分からなくて。岡林さんにお借りした本に載っていたのは記憶にあるのですけど、内容をあんまり覚えていなくて…。」

 

せっかく貸してもらった上に、ちゃんと読んだのに内容を覚えてないなんて、なんでこんなに記憶力が悪いんだろう。私がうつ病

昔から頭良くないから、うつ病だとしたら生まれつきということになっちゃう。じゃあ、先天性のうつ病ということ・・・えええ?

 

「川村さん、本を丸暗記するなんてできませんよ。書いてあったことを覚えていただけで十分でしょう。読んで下さって、嬉しいです。」と、私がしょんぼりしているのが不思議と言わんばかりに、にっこりとほほ笑む。

 

「川村さん、新型うつ病というのは、非定型うつ病とも言います。今までに認知されていたうつ病とは一線を画するものです。

一般的にうつ病と言われているものを精神科では古典的なうつ病と呼びます。古典的うつ病新型うつ病で大きく違うのは、古典的うつ病の患者さんは、『うつ病ですね』と言われた時、『うつ病ではありません』と、うつ病であることを否定することが多いです。

しかし、新型うつ病の患者さんは、自分から『うつ病だと思います』と診察に来たり、うつ病と言われるとかなり簡単に受け入れます。

 

古典的うつ病の人は、エネルギーが全くない状態と考えて下さい。エネルギーがなくなるため、動けない、食べられない、眠れないなどの症状が出ます。

新型うつ病の人は、したくない事はできない傾向にありますが、したいことはできるようです。食べたり寝たりも割とできます。もちろん個人差はありますが。

 

新型うつ病というのは最近多くなってきたと言われますが、過去にどれくらいいたかは不明です。昔から一定数存在したのか、最近増えてきたのか分かりません。

新型うつ病の人は、かなり疲れやすい印象があります。ある意味わがままに映るかもしれませんがしんどさは抱えています。今の医療で彼らのしんどさを完全に取り除けることができるかは分かりません。

私たち薬剤師ができることとすれば、頓服薬の使うタイミングを模索したり、身体の不調はないか、副作用が出ていないかを確認するくらいでしょうか。

全ての患者さんがそうだと思いますが、現状を的確に言葉にできれば治療するにしてもかなり楽になると思います。それには質問する方のスキルも大切です。私はまだまだ勉強中で川村さんに質問の仕方を教えることはできないので、一緒に試行錯誤して、いろいろな勉強会にも行きましょう。

永山さんに関して、他に質問はありますか?」

「大丈夫です。行って来ます」

 

岡林先輩はそう言うけど、新型うつ病って病気なの?怠け者が体よくサボっているだけなんじゃないの?

どうしよう、永山さんの服薬指導、ものすごくやる気なくなっちゃった。

 

「永山さん、失礼します」

永山さんは大部屋ではなく、個室の入院なので、看護師さんから部屋で服薬指導したらいいよと言われたので訪室する。

 

永山さんは、優しい印象の男性。少し頼りなく、気が弱そうな顔をしている。

「永山さん、お薬の説明をしたいのですけど、今、大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。薬剤師さんですか?」

「はい、薬剤師の川村です。よろしくお願いします。」

 

薬の名前や写真が読みやすいように、机の上にお薬説明書を並べる。

「今、永山さんが飲んでいる薬の説明書です。抗うつ薬と感情調節薬と眠剤、そして不安時の薬が出ています。薬は効いている感じがありますか?」

「薬は…、効いてると思います。」

「どういう時に薬が効いていると思いますか?」

「どういう時?先生が出してくれてるものだし…。」

ん?

「えーと…。具体的には、例えば、夜よく眠れる様になったとか、気持ちが落ち着くようになったとか、感じることはないですか?」

「あ・・・そういうことか・・・。じゃあ、よく眠れるようになりました。前は夜中まで起きていることもありましたけど、眠剤を飲んだらすぐに寝れますから、よく眠れるようになったと思います。」

永山さん、なんかボーとしてる。

 

「薬を飲む前は、不安な気持ちになったり落ち込んだりすることがありましたか?」

「そうですね。落ち込む事はありました。周りと上手くいかなくて・・・。 今もあんまり上手くいかないですけど。ここは優しい人が多いので、すごく楽です。入院って、どれくらいできますか?できるだけここにいたいんですけど。」

ん?入院生活を満喫してるの?

「えっと…。入院できる期間は、私には分からないので、主治医と相談して下さい。

永山さんは、抗うつ薬を勝手に飲むのを止めてはいけないことを知っていますか?」

「初めて聞きました。」

抗うつ薬は効き目が出るのに時間がかかる上に、急に飲むのを止めてしまうと、落ち込みがひどくなったりすることがあります。危険な薬ではないのですが、止め方にコツがいるので勝手に量を調節したりしないで下さいね。」

「はい、分かりました。」

 

簡単に副作用等のチェックをして服薬指導を終えた。なんか、とらえどころがないし・・・、意表を突かれた感じ。

恋、それは精神科の病気の症状に非常によく似ている。乙女の焦燥感と地頭には勝てない?

アリサちゃんは年相応にキャピキャピしているが、これほどテンションが高いアリサちゃんを見るのは初めて。

「川村さん、栄養科の友達に聞いたのですけんど、医大から精神科志望の研修医が来られるそうです」

 

『そうです』の後に、ハートが飛んでる。

研修医と言えば、24,5才くらい。アリサちゃんと同年代か。

医療スタッフは、ほとんどが女性。精神科は男性の看護師が多いとは言え、ウチの病院のスタッフはほとんどが結婚している。

そういえばアリサちゃんが、彼氏とのいざこざが原因でリストカットして入院してきた患者さんの話を聞いた時、「その患者さん、私より充実した人生を送ってます…」と呟いていたことを思い出した。彼氏が欲しい、と見た。

 

「岡林さん、研修医の先生とお話ししたりします?」と、アリサちゃんが岡林先輩に食いついている。

「アリサちゃん、申し訳ないんだけど、多分、あんまり関わりはないと思います…。ごめんなさいね」と、岡林先輩が申し訳なさそうに答えている。

「川村さん、もし何か関わりができるようであれば、お願いしますね」と、今度は私に訴えてきた。まあ、ほぼ100%力になれないですよね。「はい…」とだけ呟いてみた。

 

でも、研修医がウチの病院に来るのは初めてのことじゃないのに、なぜ今回はこんなに騒いでいるんだろうと疑問に思ってアリサちゃんに聞いてみた。

「川村さん、今回の研修医は精神科志望らしいんです」と、教えてくれる。

「精神科志望なんて、珍しいですね」と、岡林先輩が嬉しそうに言う。

「岡林さん、精神科志望の医師は少ないですか?」

「私が知る範囲でこの病院に来られた研修医の先生で、精神科志望の研修医の先生はいなかったですね。精神科の先生が増えてくれると本当に嬉しいですね」

 

生理が近いせいもあるかもしれないけど、なんとなく熱っぽくてだるい。だるいなのに、わざわざスーパーに寄って、チョコレート菓子とコンソメ味のポテトチップスを買う。

私は昔から甘いものが大好きだ。

甘いもの好きは高血糖・低血糖を繰り返し、短絡的思考、忍耐力の欠如、キレやすいなど感情のコントロールができなくなると言われている。なんでも摂り過ぎは良くないよね。

生理前は、カロリー消費が通常よりも多くなるらしい。味覚もいつもより緩慢になる。つまり、生理前はジャンクフードが食べたくなるのだ。ホルモンの効果は絶大ですね。

 

朝起きると、全体的に身体が浮腫んでいる。

塩分だけでなく、糖分を摂りすぎても身体は浮腫む。腫れぼったく、糸のようになった目を鏡で見ながら化粧をする。

前日に暴食しても、朝ごはんをしっかり食べられるのが不思議。

 

「おはようございます。」と、浮腫んだ顔で岡林先輩に挨拶すると、「おはようございます。」と、爽やかに挨拶が返ってくる。

岡林先輩と挨拶するとちゃんとしなくちゃと思う。

仕事を始めようとすると、薬局に電話がかかってきた。電話番でない限り、3コール以内には電話に出るのは至難の業。

「研修医の中村です。注射の入力の仕方が良く分からないのですけど、1日4回にするにはどうしたらいいですか?」と、言われた。どうしようかと岡林先輩を見ると、私が行きますとジェスチャーをしてくれたので、その旨を伝えた。

医局にいると言う中村先生に会いに岡林先輩が薬局を出るのを、アリサちゃんが目をキラキラさせて見ている。

 

数分でまた電話がかかってきた。受話器を取ろうとすると、アリサちゃんがカルタ取り名人の様に受話器を横から奪う。数秒後、満面の笑顔が曇って受話器をこちらに向ける。「川村さん、お電話です」と。

「はい、お電話変わりました。川村です」と言うと、看護師さんから服薬指導の依頼の電話だった。アリサちゃんがちょっとむくれている。岡林先輩が医局に行っている間は、研修医の先生から電話はないと思うよ。

 

岡林先輩がいないので、服薬指導の時間等はまた連絡する旨を伝えて電話を切った。

しばらくして岡林先輩が薬局に戻ってくる。

アリサちゃんが岡林先輩の胸ぐらを掴む勢いで走り寄る。怖い。岡林先輩もアリサちゃんの勢いにかなり狼狽えている。

「岡林さん、研修医の先生、どんな人でした?」

「感じのいい…先生でしたよ」

「独身ですか?」

困った顔をした岡林先輩がしどろもどろ答える。

「それはちょっと分からないけど、結婚指輪は…、あったかな…?」

「千載一遇のチャンスですけんど!」と、アリサちゃんが口を尖らせている。

「アリサちゃん。結ばれる人とはおのずと結ばれるものだから、何も心配することはないと思いますよ。アリサちゃんは可愛いですし、焦らなくても…」と、岡林先輩が恐る恐るアリサちゃんを慰めている。合縁奇縁。

 

「占いで、今年中に運命の相手に会えるって言われたんですけんど、出会いなんてないし、気持ちだけ焦ります」と、急に泣きそうになっている。展開の早さが若さの証か。

 

「あれ、川村さん、服薬指導頼まれてなかったですか?」と、急にアリサちゃんに言われて我に返る。

「そうです。忘れてました。永山さんの服薬指導を頼まれていました」

「永山さんですか。特に問題ない人ですし、川村さん、行けますか?」

「はい」

「では、お願いします。分からないことがあったら何でも聞いて下さい」

摂食障害の患者さんの服薬指導後に、カルテの書き方を習得。

さてと、カルテを書こう。

電子カルテの前の椅子に腰を掛けると、ふいーっと溜息が出る。

もう立ち上がれないかも。

この病院の電子カルテSOAP形式で書くことになっている。

 S(Subject)…患者さんが言ったことを簡単に書く

 O(Object)…主病名、検査値、薬について書く

 A(Assessment)…自分の意見や考察を書く

 P(Plan)…今後のプランについて書く

 

そうだ、Planには下剤を確認することを書かないとね。

 

これでいいかな。

「岡林先輩、若松さんのカルテを書き終わったので確認してもらっていいですか?」

「はい、今こっちで開けますね。」

電子カルテは、どこの端末でも開けるのが便利。

 

数分後に岡林先輩が声をかけてくれる。

「しっかり書けていると思います。

付け足すとしたら、O(object)に川村さんが思った、若松さんの今日の印象を書いておいて頂けますか? 落ち着いているとか、テンションが高いとか、落ち込んでいる様子だとか、川村さんが感じたことをそのまま書いて下さい。

過食嘔吐の患者さんなので、過食嘔吐が激しくなるとアゴのラインが腫れてくることがあります。もしそういうことがあったら、簡単に書いておいて頂けると次に他の薬剤師が入る時に有難いです。」

「岡林さん、精神科の薬剤師は担当制ではないのですか?」

「担当制にするつもりですが、川村さんがお休みの時にイレギュラーで服薬指導に入らなければいけない時もありますから。」

 

そうこうしていると市川主任の声がする。

「そろそろ上がってね~。私はお先に失礼するわ~。お疲れ様~。」と上機嫌に帰っていく。

岡林先輩が市川主任を笑顔で送り出してから言う。

「お孫さんが来られているので、会いたくてたまらないみたいですね。」

そうか、市川主任は還暦を過ぎているからお孫さんのいる年齢。

 

市川主任はあまり化粧をしないけど、UVクリームやら帽子やらの紫外線対策が万全のせいか、シミや皺が少ない。

キャピキャピしたキャラクターもあってか若く見える。とは言っても50代に見えるくらいだけど。

 

「川村さんもそろそろ上がって下さいね。」と、岡林先輩に言われて帰ろうとした瞬間、助手のアリサちゃんがいつもより1オクターブ上の声で駆け寄ってくる。

「川村さん!聞いて下さい。」

「アリサちゃん、ど、どうしたの?」

服薬指導が終わった後の、尋常じゃない疲労感を感じつつ、本日を振りかえる。病棟での生活を考えて、社会生活の大変さを垣間見た29歳。

看護師さんに服薬指導が終わったことを報告して、面会室の電気を消して薬局に戻る。

 

ふー、なんだか疲れた。階段を降りて、扉を開けると2階。外来の待合室を横切って薬局に戻る。

調剤薬局では毎日服薬指導をしていたのに、どうしたことか。

めちゃめちゃ疲れてる。まあ、調剤薬局では精神科の患者さんはいなかったけど。

 

薬局に着いた。

「戻りました。」

「川村さん、お疲れ様でした。お茶でも飲みます?」

お茶?なぜお茶?あ…、喉がカラカラ。

あまりにも喉がカラカラなので、岡林先輩が入れてくれようとしていたお茶を辞退して、ペットボトルに入れてきたお茶を一気飲みする。美味しい。

水中毒の人の気持ちがちょっと分かるわ。ぐびぐび飲むって、めちゃめちゃ気持ちいい。

 

「川村さん。初めてだと緊張しますよね。復習をしましょうか。」

「はい、お願いします。」

時計を見ると薬局を出てから1時間くらい経っていた。だからお茶か。

岡林先輩はすごいな。岡林先輩のいつもと変わらない笑顔に身体の筋肉が緩む。

 

「川村さん、若松さんはどうでした?」

若松さんの印象や受け答え、私の説明などについて報告する。岡林先輩はじっと聞いてくれる。報告が終わると、岡林先輩が話始める。

「順調に終わったみたいですね。お疲れ様でした。気になることがありますか?」

「気になる事はたくさんあります。聞いてもいいですか?」

「もちろんどうぞ。」

「まず、薬が多いって言われました。説明の仕方が悪かったでしょうか…。」

「特に意味はないと思います。お薬説明書に並んだ薬を見て、単純に薬が多いなって思ったんだと思います。深い意味はないと思います。

そもそも若松さんは薬が好きな人なので、薬が多いからと言って拒薬するとは思えません。」

そうか、岡林先輩は、若松さんが以前に入院していた時に対応していたから、若松さんのことに詳しいんだった。よく知っている患者さんだからこと、私が服薬指導してもいいんだって判断したのか。なるほどね。

「川村さん、疲れましたか?」

「はい、なんだか疲れました」

「精神科というだけで構えてしまいますね。自分の言った一言で自殺したらどうしようとか考えますか?」

「はい。そうなんです。自分の言った一言で自殺とか、何か治療に対して致命的な事を言ってしまったらって。」

「どうしても言ってはいけないことがあれば、カルテに大きく書いてますから大丈夫です。

自殺についてですが、この病院の患者さんは、川村さんが良かれと思った言葉が原因で自殺するということは、まずないと思います。

この病院では、患者さん同士がホールで一緒になりますし、かなり攻撃的な人やお節介な人がいます。えてしてそういう患者さんは相手の気持ちを考慮することはありません。ですから、患者さんの事を慮っている川村さんの言ったことで深く深く傷つくことはないと思います。」

「そうなんですか。ちょっと気が楽になりました。

今思い出したんですけど、下剤のことを聞き忘れました。」

「また伺えばいいです。」

「あともう一つ、お聞きしたいのですが、体重について聞かれました。分からなかったので、看護師さんに聞いて下さいって言って終わったのですが…。」

摂食障害の患者さんは体重について過敏ですからね。その対応でいいと思います。基本的に薬のこと以外は知らないというスタンスで問題ないと思います。」

「分かりました。質問は…、今はそれくらいだと思います。」

「お疲れ様でした。カルテを書いたら今日は定時で帰って下さいね。休むのも仕事の内です。」と、岡林先輩はにっこりとほほ笑む。

またちょっと緊張が緩んだ。

 

本当に疲れている時は、疲れている事にすら気付けないと言う。

緊張していたと感じるのであれば、かなり緊張が解れてきたのかもしれない。

よく分からないけど。

初めて精神科で単独の服薬指導。無駄に恐れおののき過ぎて、挙動不審感がぬぐえない。

病棟に着いた。そうだ、まず看護師さんに言わないと。

 

「お疲れ様です。若松さんの服薬指導に来たんですけど…。」

「若松さん、呼んできましょうか?」

「いえいえ、そんな。私がお部屋に伺います。面会室を使ってもいいですか?」

「じゃあ、電気はこっちなんで、付けておきますね。」と、看護師さんがにっこり答えてくれる。え~と、江村さんだったかな。優しいな~。

 

大部屋だから、入口でまず挨拶。

「失礼します。」

カーテンが全部開いてる。4人部屋。

「だれ?誰に用事?若松さん?タバコ吸いに行ったんじゃない?いないよ。」と、少し低い声で若松さんと同室の患者さんが寝転んで雑誌を読みながら教えてくれる。髪が茶髪のロングで、さらに化粧も濃くて、元不良みたいでちょっと怖い。

この世で一番怖いものは、不良なんです。

 

「では、また来ます。ありがとうございました。」

頑張っても引きつり笑顔。

 

また来ようっと。

ナースステーションに寄って、看護師さんに若松さんがいなかったので再訪することを伝えると、

「あ、今エレベーターから出てきたのが若松さんですよ。」と、教えてくれる。

「若松さん、私、薬剤師の川村と言いますけど、今からちょっとお話しても大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。タバコとライターを看護師さんに預けないといけないので、ちょっと待っていて下さい。」と言われる。

そうか、火器は危ないものね。自傷行為に使われても困るし。若松さんは線が細くて優しそうでキレイな人。確かに細いな。

「お待たせしました。」

「面会室でお話ししましょう。」と、面会室に誘導する。

 

面会室で患者さんと二人っきりになるのは初めて。なんか緊張する。

岡林先輩と一緒だった時は全然感じなかったけど、患者さんと二人きりだと圧迫感を感じる。2面がガラスになっていて、何かあっても外から丸見えという安心感はあるけど、それでもかなり緊張する。なんでだろう。

「私は薬剤師の川村と申します。よろしくお願いします。

早速ですが、若松さんは今飲んでいるお薬についてご存じですか?」

「うーん、あんまり知らないですけど、不安時とかイライラ時の薬は良く使うので、そういう薬なんだなって思っています。」

「そうですね。気持ちを安定させたり、落ちつけたりする薬がほとんどですね。お薬説明書を見ながらお話ししましょう。」

お薬説明書をテーブルに並べて説明を続行。

抗うつ薬ジェイゾロフトは下がり過ぎた気持ちを上げたり、気持ちを楽にする効果があります。トピナとエクセグランは、気持ちを安定させたり、過剰な食欲を抑える働きがあります。眠剤は、寝付きを良くするルネスタと、ルネスタよりもう少し長めに効くロヒプノール、そして深く寝るためのセロクエルが出ています。それと、立ちくらみの薬がメトリジンとリズミックになります。」

「なんか薬が多いですね。」

「多いと思いますか?」

「前の方が多かったからこれでも少なくなったけど。」と言って、若松さんはにっこりほほ笑む。

どうしよう。なんか、ペースが掴めない。

「えーと、若松さんは薬を飲むのに抵抗はありますか?」

「抵抗は特に。でも、家に帰ったら飲み忘れるかもしれません。」

「そうですね。毎食後と寝る前。1日4回って忙しいかもしれないですね。あ…、副作用とかの確認をしたいのですけど、いいですか?」

岡林先輩が、初めての会う時はあんまり時間をかけると相手が疲れてしまうって言ってた気がするけど、どれくらいだったら大丈夫なんだっけ。

「はい、大丈夫です。」

「えっと、口が渇きますか?」

「特には。」

「ふらつきとか、日中の眠気はありますか?」

「立ち上がる時にちょっとふらつきたりすることはありますけど、眠気はあんまり感じないです。」

「3週間前に立ちくらみの薬が開始になっているんですけど、薬を飲み始めて立ちくらみはマシになりましたか?」

「そうですね、だいぶマシになりました。」

「後は…、若松さんは何か気になる事はありますか?」

「そうですね。今日、体重を測ったんですけど、何キロだったか分かります?」

「あ…、ちょっと分からないです。たぶん看護師さんが知っていると思うので、聞いてもらってもいいですか?」

「あ、そうなんだ。よくわからないけど、看護師さんは教えてくれなくて。でも、いいです。今日は診察なので先生に聞きます。」

「そうですか…。では、今日はこれで終わりにします。ありがとうございました。」

「こちらこそありがとうございました。」