可愛いアリサちゃんとの一時。岡林先輩と市川主任の仲は・・・?

クールに見えて、岡林先輩は熱い。

それが最近分かってきた。

「岡林さん、一度に飲む水分の量って…例えば、コップ一杯くらいでも危険ですか?」

「コップ一杯?」

「200mLくらいです。」

「それくらいだったらおそらく問題ないと思います。通常は、1日2~4Lの飲水制限の人が多いのて、それを時間で割って水分量のプランを立てていきます。

多飲の人のプランは何年先も見据えて立てていかないといけませんから、あまり厳しくしすぎてもいけません。ダイエットと同じかもしれませんね。頑張り過ぎるとリバウンドしてしまいますからね。」

岡林先輩は時計を見て言う。

「川村さん、私今からまたちょっと患者さんと約束があるので病棟に行って来ます。」と、去って行ってしまった。

 

ま、私は調剤します。

あれれ、調剤印のインクが薄い。調剤印のインクって、すぐなくなる。

薬剤師は調剤した人の名前と日付をかならず処方箋に押印(もしくは記載)しなければいけないので、1日何十回も押印します。調剤印は摩耗しまくりです。

インク、インク…あれ?ない。

「用度課にインク取りに行ってきます」

ウチの病院は、文房具は全て用度課に取りに行く事になっています。

「川村さん、私も行きます。一緒に行きましょう。」とアリサちゃん。

良かった~。実は用度課に行くの初めて。

「アリサちゃんは、いつからここで働いているんですか?」

「1年くらい前です。」

「へ~。ここに来る前はどこにいました?」

「ここに来る前は、調剤薬局の事務をしてました。」

「薬局の事務か~。私も調剤薬局で働いていたけど、レセプトとか大変ですよね。」

保険が効く病院や薬局は、自己負担以外のお金を公的な機関からもらうために、公的な機関に毎月請求します。その請求をレセプトと呼んでいます。

「そうなんです。けっこう大変でした。今は定時に帰れますし楽しいです。川村さんは精神科志望だったんですか?」

「私?全然。精神科がイヤだった訳ではないけど、精神科を特別希望していた訳ではないです。」

「でも、川村さんが来てくれて岡林さんもとても助かっていると思います。」

「岡林さんは精神科志望だったんですか?」

「志望して来たわけではないと思います。岡林さんは私よりも少し前に精神科に入ったって聞いてます。4年は経ってないと思います。」

岡林先輩、まだ精神科3年?あんなにベテランな感じなのに?ちょっとビックリ。とは言え、岡林先輩はまだ30歳くらいだから、そんなにベテランな訳ではないか。

「市川主任はどれくらいいるんでしょう?」

「主任は、精神科がかなり長いみたいに聞いてますけんど、病棟に上がらないので臨床的なことは分からないと思います。私も岡林さんに以前、主任が何をしているのか聞いたことがあります。でも、主任は管理業務が忙しいからって言われました。管理業務って何なんでしょうね。」

アリサちゃん、言葉に棘がある。市川主任のことがあんまり好きじゃないじゃないのかもしれない。

「市川主任と岡林さんはどんな感じなんですか?」

「どうなんでしょうね。岡林さんは市川主任を大切に扱ってるみたいですけんど。」

アリサちゃんはちょっと面白くない顔をする。

「もしかしてアリサちゃんはあんまり市川主任と親しくないんですか?」と、思いきって聞いてみる。

「親しくないって言うか、何してるか分からないし、岡林さんにばっかり仕事押し付けるし…主任は人としては良い人だと思いますけど、上司としてはどうかなって…。」

「そうなんだ。岡林さんは何も言わない?」

「岡林さんは、部下に上司の仕事が分からないのが普通だから、私達にできることは私達がすればいいって言ってました。仮に主任に色々言っても暖簾に腕押しってことは分かるんですけんど。あまりに岡林さんが大変そうで。」

ふ~ん。そういう感じなんだ。

「岡林さんはもともと病棟に行くのが好きなんですか?いつも病棟に行っているイメージがありますけど。」

日本の精神科はまだまだ閉鎖的な場所が多く、医師・看護師以外が病棟にいることは普通ではないとされている。最近になって、ソーシャルワーカー作業療法士、薬剤師が病棟に上がる様になっています。精神科の病院で、薬剤師が病棟に専属でいるというのは、日本全国をみてもかなり珍しいことと言えます。

「ウチの精神科は人員も少なかったせいか、あんまり病棟に行けなかったみたいです。でも、あの時くらいからかな?岡林さんが病棟によく上がるようになったのは…。」

「あの時?」

「私も股聞きなんですけど、岡林さんが精神科に配属になって少ししてから閉鎖病棟の病棟内で自殺が起きたんです。岡林さんとも少しだけですが面識があった人みたいで、岡林さんもショックを受けていました。拒薬もあったみたいで、もし薬を飲めていたらって思っているのかもしれません。

私がここに来てからも何人か亡くなっていますけんど、病棟内での自殺はあの一件だけです。」

閉鎖病棟内で自殺…?看護師さんがいるのに?

アリサちゃんはちょっと俯きながら続ける。

「岡林さんに聞いたら、本気で自殺しようと思う人を100%止めることは難しいって言ってました。岡林さん辛そうでした。何をしていても自分が自殺を止められた可能性なんてほとんどないだろうけど、悲しいですよねって言ってました。そのことがあってからだと思います、岡林さんが病棟に頻繁に行くようになったのは。

岡林さんの中でもいろいろ思うところがあったみたいです。そんなこと顔には出さない人ですけんど、やっぱり辛かったんでしょうね。川村さんが来てくれて、岡林さんも本当に気が楽になったと思います。」と、最後は笑顔で言ってくれる。

用度課に着いた。

私はインクを、アリサちゃんは消耗品やコピー用紙を手に取る。

重い物は半分こ。

アリサちゃんが笑いながら言う。

「岡林さんって本当に良い人で大好きなんですけんど、ちょっと変わってますよね。」

「変わってる?」

「何にも動じないし、芸能人で誰が好きか聞いたら竹内直人が好きって。なんか不思議です。」

「アハハ。それは不思議ですね~。」

薬局に着いて早速調剤印にインクを入れた。やっぱりインクがしっかり付くと気持ちがいいな。

おっと時間が。業務再開。

水中毒とは! 水分を我慢することへの苦痛。(チョコレートを我慢できない私はその辛さがちょっと分かる?)

今日は金曜日。

今日頑張れば明日から週末。ゴロゴロしたい!

ジョニーデップの新作映画観たい。撮り溜めてるクリミナルマインド観たい。

 

「おはようございます」と、疲れを見せない岡林先輩。

「今日は、今週の薬の説明会に来て下さった西村さんの説明をして、その後は、服薬指導の説明を簡単にして終わりです。

来週に2,3回一緒に服薬指導に行った後は1人で服薬指導と薬の説明会に行って下さいね。」

 

え?いきなり?

顔が引きつってたのか、岡林先輩は優しく言う。

「大丈夫です。心配することは何もないです。難しいこともないです。初めてで迷うことがあれば、なんでも聞いて下さい。

では、西村さんの説明をします。西村さんは、水中毒です。水中毒というのは聞いたことがありますか?」

「水を飲みすぎて電解質のバランスが崩れ、意識障害などを起こすものですか?」

恐る恐る答えてみる。

「その通りです。電解質のバランスが崩れます。電解質のバランスが崩れることは、命に関わります。

水中毒になる前に、必ず『多飲』というものを通ります。

多飲の時期が10年くらいあって、水中毒の域に入っていくと言われています。正確にいつから多飲が始まるのかは確定できないと思いますが、数か月間でいきなり水中毒になるわけではないということです。もし、入院中の患者さんで『水を飲むと頭がスッキリする。』と言っていたり、『水は飲めばいいほどものだから』と言う方がいらしたら注意が必要ですから、担当の看護師さんや栄養士さんに相談します。

水中毒の9割以上は統合失調症ですが、強迫性障害やその他の疾患の患者さんでも起こります。

もともとベースに持っている精神科の疾患が悪化してくると、多飲に拍車がかかると言われています。

水中毒も大変難しい疾患の1つです。川村さんは、ダイエットをしたことがありますか?」

ん?ダイエット?

「はい。あります。」

「その時、食べたいのに食べるのを我慢しました?」

「我慢しました。仕方ないからコンニャクをいっぱい食べてました。」

「川村さんには水中毒の人の気持ちがよく分かるかもしれません。食事を我慢するよりも飲水を我慢する方が難しいと言われています。」

もし私が、チョコレートを一生食べたらいけないと言われたら…。本気でどうしよう。

水中毒の症状としては、尿失禁、嘔吐、吐き気、下痢なども起こりますが、精神症状の乱れも問題になります。

攻撃性が上がったり、錯乱したり、認知レベルが下がったり、集中力に欠けるようになります。

どれくらい水分を摂ったら水中毒になるかは個人差がありすぎてわかりません。一度に摂る水分量が多いほど水中毒になりやすいと言われますが、一度にどれくらいまでなら大丈夫と言いきれる訳でもありません。

スポーツ飲料を一気飲みしている人は糖尿病になる可能性がかなり高くなります。

水中毒の患者さんの飲水制限については主治医や看護師さんもかなり厳しく指導して下さると思います。ですから、私はあまり厳しく水分のことについては聞きません。患者さんの方から話して下さる場合は、もちろん傾聴します。

しかし通常は、睡眠がとれているか、薬はちゃんと飲めているか、精神症状は安定しているか、不安時などの頓服薬を有効に使用できているかの確認をするくらいです。喉が渇くのは患者さんのせいではないのですが、ある程度の我慢はしてもらわなければいけません。糖尿病の人が甘いものを制限されるのと同じです。

ダイエットと違い、水分!は代替できるものがないので患者さんも本当に辛いと思います。」

これも薬剤師の仕事? 国際化の波にのってみせます!

市川主任がどこからともなく現れた。

「皐月ちゃん、ちょっと来てくれる?」

「はい。川村さん、ちょっと行ってきますので、また薬の監査をお願いしてもいいですか?」

と、岡林先輩が市川主任に付いて行った。

 

2人の会話が聞こえる。

「皐月ちゃん。なんか外来の患者さんが、来月にシンガポールに行くらしくって。シンガポールに持ちこみできない精神科の薬って何か分かる?」

「いつまでにお調べしたらいいですか?」

「できれば今日中。」

「今が、14:30…。ちょっとお時間下さい。目処が付いたらまたご報告します。主治医はどなたですか?」

「柿花先生。」

「このお話、私が受けてよろしいですか?市川主任を通した方がよろしいですか?」

「皐月ちゃんに任せるわ。」

 

え?丸投げ?

市川主任、爽やかなほど潔いわ。

 

岡林先輩が、どうやらシンガポールの大使館に電話をしている。

ん?どうやら、HPを見て自分で調べろと言われたようだ。

英語で記載されている薬剤名を訳している。

「岡林さん、何かお手伝いできることありますか?」と、聞いてみる。

「助かります。後で確認して欲しいことがありますので、よろしくお願いします。」

 

今は、とりあえず監査に戻ろう。

助手のアリサちゃんがおもむろに、

「私、旅行会社の知り合いがいるので、ちょっと聞いてみます。」と言って、携帯で電話をかけ始めた。

アリサちゃん、なんか頼もしい。

アリサちゃんが、さっと電話を切って戻ってきた。

「岡林さん、旅行会社の添乗員の知り合いに聞いたんですけんど、今まで眠剤とかを調べられたことなんてないそうです。『注意されたり、取り上げられることなんて、絶対ないですよ~』って、言ってました。もちろん絶対なんてないと思うんですけんど、おそらく大丈夫みたいです。」

アリサちゃんはたまにちょっとだけ訛る、『ですけんど』って。

ぷにぷにしてて、24歳で、可愛い以外の表現ができない。

「アリサちゃん、ありがとうございました。助かりました。大使館のデータと、今の情報を主治医に伝えます。」

 

「川村さん、これが合っているか確認お願いします。」

大使館のHPからプリントアウトした紙の英語の薬剤名の下に日本語の薬剤名が書かれている。

初めての精神科っぽい仕事。猛烈に確認します。

 

うん。さすが岡林先輩。私がみるところ、全く問題なし。

「確認しました。問題ないです。」

「ありがとうございました。柿花先生のところに行ってきます。」

 

岡林先輩は5分くらいで戻ってきた。

「市川主任、無事に終わりました。川村さん、アリサちゃん、ありがとうございました。」

私の好奇心満タンの視線に気付いたのか、説明してくれる。

「柿花先生の患者さんが、シンガポールにお仕事で行かれるみたいなんです。

アリサちゃんのお知り合いからの情報もお伝えしたのですが、シンガポールの方とのお仕事だそうなので、規則をしっかり守りたいみたいです。シンガポールに届け出なくても大丈夫な薬を持って行くことになりました。」

「海外に行く時に届け出ないといけない薬って結構あるんですか?」

「国によって違うとは思いますが、麻薬くらいじゃないでしょうか。違法麻薬以外の薬を海外に持ち込んで逮捕、というのは聞いたことがないので大丈夫ではないかと思うのですが、私も詳しくはないので…。

アメリカでは、フルニトラゼパム、日本ではロヒプノールサイレースといった名前ですが、これはデートドラッグと言われてレイプ等に使われるらしいので、かなり規制が厳しいようです。

でも、日本ではロヒプノールサイレースは一般的な眠剤ですから、知らずに持ち込んだ方も沢山いらっしゃるんじゃないでしょうか。海外に行ったら、とりあえず薬を他人に渡したりはしない方が良さそうですね。」

 

ふ~。

今日も疲れた。まさかシンガポールに持っていく薬を確認するとはね。

なぜに毎日こんなに疲れるのだろうか。

父から、定年後に始めた畑で茄子が大量に採れたとの情報あり。

今日はマーボー茄子にしよう。

スーパーで甜麺醤(テンメンジャン)を買って帰ろう。コチュ醤はまだある。

母に電話。

「夕食はマーボー茄子でいいですか?」

「お願いしま~す。」

料理がキライな母のために親孝行。

中国4千年の歴史だけあるわ、中華って美味しい。

 

摂食障害の患者さんへの対応と、近道がないことへの憂鬱。

「同じ摂食障害でも、青木さんはかなり痩せていますね。青木さんの方が藤原さんよりも摂食障害の歴が長いです。

現在は、青木さんは下剤乱用、藤原さんは過食嘔吐が主な症状です。

過食嘔吐の患者さんは、過食してから嘔吐までにある程度栄養を吸収できるからか、異常に痩せている印象は少ないです。

長い間摂取カロリーが極端に少ない人に、カロリーの高いものを提供すると、肝機能が悪くなったり電解質に異常が出たりすることがありますし、そもそも大量の食事を目にするだけで、摂食障害の患者さんにはストレスになりますから、入院してきたばかりの摂食障害の患者さんには、少ない量の病院食が提供されることが多いです。

過食嘔吐を繰り返して入院に至った患者さんでは、むしろ病院食を3食食べて間食しない方が体重が落ちることもあります。根気のいる疾患ですが、少しでも患者さんの訳に立てるように頑張りましょう。」

「患者さんに言ったらいけない言葉とかはありますか?」

摂食障害の患者さんにですか?」

「はい。でも、精神科の全ての患者さんに対しても言ってはいけないことがあれば知りたいです。」

ちょっと困ったような顔をして岡林先輩が答える。

「今の質問は、一般科の薬剤師にもよく聞かれます。言ったらいけないことなんてありません。普通に接して下さい。

このキーワードは絶対にタブーなんてことはないです。むしろ、言っていい事と言ったらいけない事が明確に分かれているのであれば、そんなに楽なことはないです。

ただ、精神的な疾患は傷が見えません。どれだけ大きな傷なのか、誰にも分からないんです。もしかしたら本人にも分からないかもしれない。でも、傷はあるんです。それだけは忘れないで下さい。」

 

きっと、同じ質問を何度も聞かれて、同じことを考えて、そして、やっぱり答えがないという結論に達していたのかな。

 

どの世界もそうだろうけど、底がないな…。

摂食障害、カロリーが足りないと脳は委縮する?

「サワコさんのお話はかなり漠然としていますが、拒食、過食嘔吐、下剤は摂食障害の人に多いです。過食嘔吐だけで下剤は使わない人、下剤だけ使う人など、個人差がありますし、自傷行為を行う人もいます。自傷行為というのは、自分で自分を傷つける行為のことです。自傷行為の中でもリストカットや過量服薬が多いと思います。

摂食障害の患者さんは、衝動性が高い患者さんが多いと思います。

それに、摂食障害の患者さんは、その衝動性を隠すためや、痩せるためにウソをつくことも多いです。

嘘をつくことも症状の1つだと思っています。性格の問題などではなく、症状だと思って下さい。嘘をつくということは、罪悪感を感じているということで、止めたいけどやめられないんですよね。本人も辛いんです。

痩せるという妄想に左右されているので、致し方ないことで、患者さんを責めてもどうにもならないのですけど…。」

ん?やや棘がある言い方?

「岡林さん、もしかして嘘をつかれたことが…?」

「もちろんあります。嘘をつかずをえない精神状態も辛いのだと分かっていても、始めはやるせない気持ちでいっぱいでした。心を開いてくれたと思っていた人に嘘をつかれると…信頼されていないと感じると虚しくなることもあります。長く関わると難しいことですが、客観的に対応できるくらいの距離感は保つように心がけています。」

「嘘をつかずをえない精神状態…。」

にっこりと頷いて、岡林先輩は説明を続ける。

摂食障害の患者さんの食べ方は偏りが大きく、瞬時に満足を得たいのか、味覚自体が鈍くなっているのか、味が異常に濃いものを好む傾向があります。

彼らにとって、食べるのを我慢できる時に食べろと言われることは苦痛だと思いますが、『普通の食生活』に矯正していかなければ、自然と良くなることは…入院するくらいの患者さんではなかなか難しいと思います。

カロリー摂取が極端に少なくなると、思考が鈍くなり理解力が低下します。論理的に考えることができなくなり、衝動性が増したり、痩せたいという妄想で行動の全てが左右される場合があります。るい痩(るいそう:強度に痩せた状態)が長期間続くと、脳が委縮することがあります。

ですから、時にはやや強引にでも、点滴や経鼻チューブで栄養を入れなければいけない場合もあります。患者さんが積極的でない治療を行うことは、医療スタッフにとっても大きな負担になりますが、摂食障害の患者さんは人によっては死のリスクが非常に高いため、やむを得ない場合もあります。

摂食障害の患者さんは訴えがとても多いです。それが本当に辛いのか、誰かと話がしたいだけなのかは分かりません。しかし、定期的に関わって行くのは大切だと思います。

今までの説明で、何か質問はありますか?」

 

私もダイエットはしたことがある。

リンゴダイエットから始まって、絶食まで様々なダイエットを試してきて、当然の様にリバウンドも何度もしている。

その経験から言わせてもらうと、普通はそれほど頑張れない。

「なんでそんなに頑張れるんですか?」と、漠然とした疑問を聞いてみる。

「…。痩せたねって言われる快感、人からかまってもらえる本能的な喜び…。分かりません。」

「寂しいだけですか?」

「ある意味、そうかもしれません。」と、軽く頷きながら岡林先輩が答える。

「彼らは、どれくらい痩せたら気が済みますか?」

岡林先輩が困った様に首を横に振る。気が済むことなんてないんだ。

なんとなく沈黙が流れた。

そもそも、岡林先輩の声のトーンがいつもよりちょっと暗い。

摂食障害の患者さんに、薬剤師はあまり役に立てないんです。いえ、ただの勉強不足です。ごめんなさい。」

珍しく自嘲的に笑う。すぐにいつもの岡林先輩に戻って話し続ける。

摂食障害の患者さんは、小さな訴えが多いのはさっき言いましたね。まず傾聴、そして、専門的な話よりも一般的な話をします。

向こうがご機嫌だろうと、怒ろうと、イライラしようと、私達はできるだけ態度を変えない方がいいと思っています。

 

例えば、便秘という訴えがあれば、食事や水分は摂れているか、夜眠れているか、お腹や体は冷えていないか、お腹のマッサージはしているか、気持ちは落ち着いているかなど、本当に一般的なことを聞いて様子を見ます。

どうしても便秘が続くという訴えが連日あったとしても、薬を増やす方向にいったことはないです。

私の対応が良いのか悪いのかは、分かりませんが…。まだまだ試行錯誤です。」

と、岡林先輩はにっこりと微笑む。全然関係ないけど、肌キレイだな~。

 

摂食障害のサワコさん、後半。摂食障害に治癒はあるのか?

病院の食事なんか美味しくない。味も薄いし。食べたくない。

看護師さんにふりかけは食べてもいいって言われたから、お母さんに言って買ってきてもらった。

お母さんに、「食べないと退院できないから、好き嫌いせずに頑張って食べてね。」と言われた。

食べれるのに。

食べれるけどちょっとダイエットしてるだけなのに。

一週間経った。イライラする。夜も眠れない。

主治医に言ったら薬を出された。眠剤と気持ちを落ちつける薬だと言われた。

 

次の日。

眠剤を飲んだせいか、ダルい。

動けなくなる。毎日10km走ってたのに。

薬なんか飲まない。そもそも病気じゃないんだし。

病院では吐いたこともないし、ちゃんと食べてるのに。

友達からメールが来ない。お母さん、10時には来るって言ってたのに。

もう10時5分なのに、まだ来ない。

 

入院してから2週間経った。

毎日体重測っていたのに、入院してから、まだ体重を測らせてもらってない。

体重増えてたらどうしよう…。怖い。

 

12時間は外出が許されているので、全力で歩き回る。

暑い。汗をかくと痩せそうで嬉しい。

暑いから、ちょっとドラッグストアに寄ろう。

下剤コーナーが広いスペースを取っている。

そういえば最近便秘がちだ。

家からこっそり持ってきていたお金で、便秘薬を買いました。

便秘薬を使うと便が出た。すっきりした。

量を多めに飲むと、それだけ便が出る。

お腹がグルグル鳴る。消化される前に食べ物が出ると思うと嬉しい。

 

下剤を使い始めてしばらくして、意識がなくなった。

気が付いたらベッドに寝ていました。

お母さんが泣いてる。また倒れた?

主治医の声が遠くに聞こえる。

「しばらくはあまり動かないように。外出も禁止。下剤は使わない。便秘になったら言いなさい。」

声が遠い。私に向かって言ってるのかな?

 

それから1週間はずっとベッドで過ごした。

生まれて初めて点滴をしたし、鼻からも管を入れられた。液体の栄養剤だと言われた。

栄養剤って、何が入っているんだろう。カロリーが気になる。太りたくない。怖い。

 

お母さんが本を持ってきてくれた。

そうだ、私は小さい時から本の虫だったのに、ダイエットを始めてからはあまり読んでなかった。

読書をすると動かないから、少しでも動こうと思って読書をするのは止めたんだ。

 

活字を見ると少し落ち着く。食事も頑張って食べている。

イライラ時という頓服の薬を飲むと、無償に食べたいと思う気持ちを少しだけ抑えられる気がした。

8月中旬、主治医に言われた。

「だいぶ良くなった。そろそろ帰っても大丈夫そうだね。

栄養剤を出しておく。食事が食べられない時に、朝昼夕に1缶ずつ飲みなさい。

運動は、1日1kmくらいまでのウォーキングにしておきなさい。

薬もちゃんと飲んで、しっかり睡眠を取って朝ちゃんと起きること。

病院から出されている下剤以外は飲まないこと。」

色々細かいな。

お母さんは喜んでくれた。

家に帰れるのは嬉しい。何もすることがない時は本を読もう。

お母さんの好きな韓国ドラマも観てみよう。吐くのと下剤は止めよう。

太りたくないけど、入院するのはもうイヤ。

お母さんが泣くのは見たくないし。」

 

岡林先輩は、また水を飲みに行った。

「お昼のお蕎麦のせいでしょうか。喉が渇いてしまいました。」

ちょっとだけ照れたように笑い、説明を再開する。

 

摂食障害のサワコさん、前半。

今度は仮のサワコさんとしてお話しましょうか。

サワコさんは普通の高校生一年生。

仲のいい友達がクラスメートにいて、毎日楽しく学校に通っていました。

ある日、友達の1人が最近ダイエットをしていると楽しそうに話すのを聞いて、なんとなく私もダイエットしてみようかなと思って、ダイエットを始めました。

もともと標準体重で太っていたわけでもなかったけれど、晩御飯をゆで卵だけにするだけで、1週間で2kg痩せたこともあって、ダイエットが面白くなってきました。

食事は全て自分で作り、陸上部の練習も毎日行っていました。数か月で、『かなり細い』体型になりました。

家族は心配しましたが、細いと言われることが嬉しかった。

ダイエットもせず、デブのまま生きている人が不思議。ある時から、食べなくても大丈夫だと思えるようになりました。

水だけは飲みました。水はどれだけ飲んでも太らないって本で読んだから。

食べない日がどれくらいだろう、かなり長い間続きました。

ある日、ひどい空腹感を感じて、目に入ったものは全て食べました。

ただ口に入れ、噛んで、飲み込んだ。ひとしきり食べた後、我に返り、食べてしまったことへの罪悪感が襲ってきて、喉の奥に手を突っ込んで吐きました。吐いたら楽になりました。

またしばらく水だけの日が続いて、そしてまた食べまくって吐きました。

そんなことを繰り返して、高校三年生のある日、いきなり倒れました。

休み時間に廊下を歩いていただけなのに、倒れた。

幸い頭を強く打ったわけではなかったけれど、念のためMRIやレントゲンを撮ることになりました。検査ため一晩入院したけれど、転倒による障害はないだろうと言われ退院の許可が出ました。

退院の予定時間の少し前、主治医の脳外科の先生に言われました。

「この病院は精神科があるから、退院前に寄って行きなさい。予約は入れてあるから。」

行きたくない。

精神科なんて…、ちょっと倒れただけなのに、MRIでも異常なかったのに、この先生おかしいんじゃないかと思いました。

「はい、分かりました。」と口では言ったものの、行く気なんかなかった。

お母さんより先に家に帰って、忘れてたって言えばいいや。

「サワコ、じゃあお母さんも一緒に行くね。サワコ、最近眠れないって言ってたし。丁度良かったね。この前テレビで、眠れないと太りやすくなったり、イライラして集中力が低下するって言ってたし。」

眠れないと太る?そうなの?

お母さんが言うように、最近はあまり眠れていない。

太るのはイヤだ。せっかく痩せたのに。

仕方ないか、行くって言っちゃたし。

 

始めに精神科の先生とちょっと話したら、外に出されました。

お母さんとだけ話している。

ヒマだから携帯でSNSを見ていたら、診察室から呼ばれました。

中に入ると、「今日から入院しなさい。」と言われました。

は?高校生で精神科に入院とか頭おかしいんじゃない?お母さん何とか言って!

「今はこの病棟のベッドしか空いてないって。建物もキレイだし、個室も空いているって。サワコが思っているより、サワコの体は調子が悪いらしいの。」

「どこが?MRIとかは大丈夫だって言ってたけど。」

「栄養状態が悪いみたい。もうすぐ夏休みだから、みんなより一足先に夏休みに入ろう。」

イヤイヤ。家に帰りたい。入院なんてイヤ。

サワコの意に反して、今日から入院することになりました。

洋服や身の回りの物はお母さんが後から持ってきてくれることになりました。

友達にどう言おう。お母さんも帰った後の病室で1人、泣きそうになっていた。

病室に看護師さんが様子を見に来てくれた。

「どうしました?」

看護師さんの笑顔が思いのほか優しかったからか、涙が出てきた。

「私、家に帰りたい。病院なんてイヤなんです。友達にもなんて言ったらいいか…。」

看護師さんはそっと頭を撫でてくれた。

「体が良くなったら、すぐに帰れます。それまでのちょっとの間、一緒に頑張りましょう。

お友達には、診療科は伝えないで、入院していることだけ伝えたらどうかしら?メールや電話で連絡が取れますから。」

サワコは頷く。

 

次の日、決まりを書いた紙が担当の看護師さんから渡される。

・食事はホールで食べる。

・食事の後の1時間はホールにいる。

・病院内で行われる作業療法は全て参加する。

・間食はしない。

・お小遣いなし。

 

・1日2時間以上の外出禁止