初めて単独の服薬指導に行け!とのご用命。親鳥に見送られて飛び立つ私。
お昼が終わって、薬剤部に戻る。
「お昼、お先にありがとうございました。」
「お帰りなさい。」と、市川主任が迎えてくれる。
岡林先輩がカルテから目を離して言う、
「川村さん、服薬指導に行って欲しい人がいるのですけど、独りで行ってもらってもいいですか?」
え?良くないけど?
「岡林さん、私が独りでですか?」
「ええ。大丈夫です。習うより慣れた方が早いです。若松さんという摂食障害の方です。お願いします。分からないことがあったら聞いて下さい。」
「はい…。」
どうしよう。いきなり。
とりあえず、カルテ、カルテ。
えーと、若松さんは30歳で、3歳の子供さんが1人いる。シングルマザーだ。シングルマザーって、大変そう。
旦那さんの記載はなし。1週間前に入院してきてる。
入院歴は…5年前からだと4回。前の病院からの紹介状があるから…、えーと、16歳の時にダイエットをしてから摂食障害。前の病院でも5回の入院歴があって、5年前に高知の実家に引っ越してくる時にこの病院に紹介されてきた、と。16歳当時の記録はないから、詳細は不明か…。
過食しては自己誘発嘔吐(自分で嘔吐すること)を繰り返す。下剤使用の記載はないから、下剤は使っていないのかな。
血液検査で異常値なのは…、白血球が2500?めっちゃ低い。
血圧も80?低いな。コレステロールがすごい低くて、中性脂肪は高いかな。ちょっとだけ確認してから行こう。
「岡林さん、ちょっとだけ確認してもいいですか?」
「もちろんです。」
「若松さんなんですが、自己誘発嘔吐がひどくて入院してきたみたいです。検査値はこんな感じですか?」
「そうですね…、白血球と血圧が低いのは特に問題ないと思います。普通なら白血球は3500以上ですが、摂食障害の患者さんは若くても2500くらいになることは珍しくないです。血圧は上が80。立ちくらみがあって、メトリジンとリズミックが処方されていますね。摂食障害の患者さんは、血管の状態が悪ければ高血圧になることもありえますが、概して血圧は低いです。
中性脂肪が高いのは、入院前の過食の量が多かったのかもしれません。中性脂肪は食事の影響をものすごく受けるので、次回の検査結果を確認しましょう。
アミラーゼが高いのは、嘔吐していることが原因かもしれないので、次回の検査を見てみましょう。嘔吐が治まったら、アミラーゼも低下していくと思います。」
アミラーゼは嘔吐したら高くなるんだ。そうか。
「下剤は使ってないでしょうか?」
「下剤乱用の記載はありませんし、外来の主治医の記事にも下剤についての記載はありません。でも、下剤を使っていないとも断言できませんので、患者さんに聞いてみて下さい。血液検査の電解質は正常値なので、下剤を使用していたとしてもすぐにどうしないといけない訳ではなさそうですね。」
え?直接聞くの?そうか、そうよね。聞いてもいいんだ。
「ありがとうございました。とりあえず行って来ます。」
「いきなりで申し訳ないですけど、よろしくお願いします。」と、岡林先輩が優しく送り出してくれる。
「あ、川村さん、とうとう独りで行くんですね。頑張って下さい。」
アリサちゃんも笑顔で見送ってくれる。
精神科の患者さんへの対応にやたらと恐れおののいてしまう。そして、超絶明朗な先輩により目から鱗がこぼれ落ちた。
『まーいいか』か…。
寝ると忘れる私は、まーいいかの境地なの?
はー、分からんことばかりだ。
今日のお昼はお弁当を持ってきていないから、食堂で食べよう。
食堂で1人でご飯食べるのイヤだなあ。
「あれ、川村さん?今日は食堂なの?」と、元気いっぱいな佐竹さん。
「佐竹さん、お疲れ様です。今日は私も食堂です。ご無沙汰しています。」
「精神科はお隣だけど別病院だし、あんまり会わないね。何食べる?」
「私はラーメンにしようと思います。」
「ラーメンもいいね。私はサバ味噌にしようっと。」
いいなあ。何をするにも元気いっぱい。佐竹さんは疲れることがあるのかな。
「大枝さんは、疲れたりします?落ち込んだりとか…。」
あ、うっかり聞いちゃった。
「川村さん、すごいこと聞くね。アハハ。ちょっと失礼かも。
もちろん疲れますよ。家ではグターってソファに寄生してるし、当然落ち込む事もあるよ。」
すごい元気。
「で、川村さんは、疲れている、というか落ち込んでるの?」
「え…、分かります?落ち込んでいるように見えます?」
「う~ん、落ち込んでいる様には見えないけど、落ち込んでるからこその質問かなって思った。で、どうしたの?」
私が洞察力なさすぎるかな。岡林先輩と言い、佐竹さんと言い、なんか鋭い。これが年の功?
でも、佐竹さんと二人で話せる機会もあんまりないだろうから、聞いてみよう。
「精神疾患の人への接し方とかが分からないんです。もう少しで1人で服薬指導とか行かないといけないんですけど、なんだか怖くって…。傷つけたらどうしようって。」
「自分が言った言葉で、自殺とかしたらどうしようかって?」
図星すぎて顔が引きつる。
「川村さん、大丈夫でしょ。岡林さんに聞いてる範囲でしか知らないけど、自殺のリスクがある人は、入院する時に自殺はしませんって誓ってから入院する訳だし。
それに、その患者さんが一生その精神科で入院してるんだったら話は違うけど、自宅に帰る、もしくはグループホームとかの施設に行く予定なんだったら、川村さんの言葉くらいで自殺してたら命がいくつあっても足りないよ。
世の中には、キツイ人も沢山いる。『キチガイ』って、正面切って言う人も実際にいるから。
川村さんの対応が100点満点じゃなかったからと言って、致命傷になることはないでしょ。」
わー。さらっと言う。言いにくいことをスパッと言うなー。
「川村さんの目標は何?」
「えっ? もく、目標?人生の?」
「アハハ。そうじゃなくて、精神科の患者さんに接する上での目標。」
「薬を効果的に使ってほしい…かな? 勝手に薬を飲むのを止めた時のリスクも知って欲しい、かな?」
「だったら、それを話せばいいんじゃない。慢性的な疾患に関わる医療スタッフは大なり小なりその人の人生に関わる。その人自身を変えることはもちろんできないけど、その人の望む人生を生きれるようにサポートしていければいい。
でも分かる。精神科って、未知の領域だもん。
うつ病は『心の風邪』とか言って認知度は上がったけど、『頑張って』って言ったらダメとか言うし。そもそもケースバイケースなんじゃないかな。
でも仮に、相手が望む言葉ではない言葉を言ってしまったとしても、それで再起不能になるほど落ち込むことはないでしょ。何度も言うけど、世間にはもっと心無いことを言う人がたくさんいるから。
皐月がね、気持ちが全て伝わることはないかもしれないけど、それでも気持ちは必ず伝わるって言ってた。だから、川村さんが患者さんの事を大切に思っていることは、期待する時や形ではないかもしれないけど、必ず伝わると思う。まあ、そう信じなきゃやってけないしね。」
「皐月?あ、岡林さんの名前。」
「いつもは皐月って名前で呼んでるけど、職場で名前で呼ぶと皐月が怒るから。でも、うっかり呼んじゃった。内緒ね。」
「岡林さんはすごいですよね。もう、完璧って感じです。」
「皐月が?完璧な訳ないよ。全然違う。皐月くらい悩んで落ち込む人はいないし。すぐに泣くしね。」
「岡林さんが…、なんか全然想像できない。」
「皐月は死ぬほど人見知りなの。なんかこう、掴みどころがない感じがしない?裏表はないけどね。ウソは下手だよね。いい年だし、方便くらいは使える様になって欲しいんだけど。変な子だよね。まあ、面倒みてあげて。」
「いえいえ、私が一方的にお世話になってますから。」
「うわ~、川村さんって謙虚。良い人が入って皐月も喜んでるね。おっと、そろそろ戻りましょうか。歯を磨かなくちゃ。」
そうだった、佐竹さんはやたらと丁寧に歯を磨く。一見そうは見えないけど、気配りも細かいし几帳面なんだ。
私も、歯くらいはちゃんと磨こう。
発達障害の蔭山さんとの初対面。愚者は経験からしか学べないことを知り、とりあえずマニュアルを求めてみるがマニュアル自体が見当たらない。
月曜日。
また一週間が始まる。
「おはようございます」
「川村さん、おはようございます。今日は発達障害を勉強しましょう。」
「はい。」
「アスペルガー症候群も広汎性発達障害に入ることはこの前説明しました。
では、発達障害とは何かと言うと、まだ良く分かっていません。
他の病気もそうですが、医療は日進月歩で進歩していますよね、発達障害も最近出てきた概念です。知能検査などで点数化して診断することもできると思いますが、体調ややる気などでかなり点数も変わってきますので参考程度、というところでしょうか。でも発達障害の患者さんは接しているとなんとなく分かります。では、とりあえず行ってみましょう。」
「はい。」
岡林先輩と一緒に病棟に上がる。
どうやら患者さんのところに服薬指導に行くみたい。カルテとか全然見てないけど、いいんだろうか。
「蔭山さん、今お話ししても大丈夫ですか?」
蔭山さんは20歳の男の子。おとなしそうで、素直そう。
「はい、大丈夫です。」
「お薬の話をしますね。」と、岡林先輩が言う。お薬説明書に話す内容を書きながら説明し始めた。薬としては、ストラテラと眠剤と頓服の抗不安薬だけ。
ストラテラは発達障害に良く使われると、岡林先輩から借りた本に書いてあった。もちろん、効果は個人差があるから、全ての発達障害の患者さんに効くわけではないそうだけど。
蔭山さんは大人しく話を聞いている。薬の話が終わってから岡林先輩が続けて聞いていく。
「音や光に敏感ですか?臭いはどうですか?」
「音や光には敏感な方だと思います。臭いは普通だと思います。」
「良く眠れていますか?」
「たぶん寝れていると思います。」
「寝付きはいいですか?」
「寝付きはいいです。」
岡林先輩は1つ1つ質問し、蔭山さんは1つ1つ答えていく。
「では、今日はこれで終わりますね。気になることはないですか?」
「明日、母親が来てくれるか気になります。」
「それは、蔭山さんがお母様に聞いて下さいね。では失礼します。」
薬剤部に戻る。
「川村さん、お疲れ様でした。初めてお会いする患者さんなので、手短に終わりました。発達障害の患者さんは人とのコミュニケーションが苦手ですので、初めて会う人とお話しするだけでも疲れてしまうと思います。」
「岡林さん。ちょっと聞いてもいいですか?」
「もちろんです。何ですか?」
「蔭山さんはお母様と何かあったのですか?」
「特にトラブルがあるようなことは聞いていないですが、何かありました?」
「何かあったという訳ではないのですけど、お母様が来てくれるか気になると言っていましたから。」
「ただ気になっただけだと思います。それについてはあまり気にしなくても大丈夫です。
発達障害の患者さんは、小さなことでも気になったことが頭から離れなくてどうしようもなくなることがあります。こちらで解決して気を楽にしてあげたいと思いますが、自分でどうにかすることを学ぶことは大切なことです。」
「発達障害の人と関わるのにコツとかありますか?」
「コツ…。これさえあれば、というものはありません。病名が一緒でも、性格や育ってきた環境が違うと対応も異なると思います。
でも、そうですね…、強いて言えば、間違うことやできないことでその人の価値が変わることではないことを伝えるというか…。上手く説明できないですけど、もし何かに困ってると患者さんに言われたら、困っていることが分かって、それを伝えられたことはとても大切なことだと伝えるようにしています。上手く説明できなくてごめんなさい。」
「いえ…、あともう一つ。音や光や臭いに敏感な人が多いですか?」
「敏感な人の方が多い気がします。ただ、それは発達障害だからという訳ではなく、精神的に不安定になってくると誰でも過敏になると思います。もし音や光や臭いに敏感だと言われたら、今いる場所は大丈夫かということを確認したり、薬の変更などがあった時に過敏の度合いを聞いたりします。」
マニュアルで対応できることでもないのかもしれない。
まあ、マニュアルはあって当然だけど、マニュアルだけでどうにかなる訳ではない、ということかな。明らかに賢くない私は、経験から学ぶことしかできなさそう。
岡林先輩みたいな人達ばかりの国があれば、もしかしたら発達障害という病名自体がないのかもしれない。発達障害という概念自体が社会病の気がする。
全てがスムーズに機械的に行われる現代。人との関係性もスマートさが求められる。平均点が高くなると、平均点に達しない人はあたかも病人扱い?
私自身も発達障害かもしれない。人との関わりで頻繁に悩む。悩んだって意味がないのかもしれないけど悩む。嫌われたくないし、優しくされたい。
「川村さん。極端な話かもしれませんが、結局は、『まーいいか』と思えるかどうかだと思います。患者さんが『まーいいか』と思えるまで、私達にできることをしていきましょう。」
柔らかに笑って岡林先輩は外に出て行った。
川村トミ子の休日。精神科は今日はお休みです。清水の舞台から飛び降りて、車買ってみました。
とりあえず、家に帰ろう。金曜日の夜だけど、まっすぐ家に帰ります。
私もそろそろ三十路。
もうちょっと可愛かったら、もうちょっと賢かったら、素敵な人に見初められて、今頃ママになってるのかなあ。
顔の造形も整っていないし、不器用だし、薬剤師って言う、なんかパッとしない職業だし。
大学では、「アメリカでは、信頼度ナンバーワンの職業だから。」と耳にタコができるほど言われてきたけど、居住地は日本。日本の薬剤師なんて、もちろんピンキリだけど、私みたいな病院とか調剤薬局の薬剤師なんて、言ってみれば隙間産業。それに、病院の薬剤師って薄給。
飢え死にはしないかもしれないけど、ブランド物のバッグとかは買えないな…。
最近、薬学部が6年になったけど、私立は元が取れないよ。お金持ちの道楽学部になっちゃうんじゃないかな。
はぁ、愚痴愚痴思ってしまうのは、疲れているサイン。
まあ、私には恋愛は似合わないし、一生独身で生きてる女性なんか星の数だけいるわ。地味に過ごしていこう。
でも、1つくらい趣味があってもいいな。武道とか、なんかカッコいい感じの疲れすぎない感じの…。う~ん。
電車の時間まで30分くらいあるから、スーパーに寄って行こう。
田舎は1時間に1~2本しか汽車がない。貴重。
ここのスーパーは安い。
趣味が何って聞かれたら、『スーパー巡り』かもしれない。
スーパーの中をウロウロするのが大好き。
置いてあるものなんて遜色ないけど、なんか好きで、1,2時間すぐに経つ。
母親は、値引きシールが貼ってあれば全て買ってしまうくらい、値引きシールが好きだけど、私は値引きのものはあまり買わない。以前、値引きシールが貼ってあるパンを買ったら、ぱさぱさだった。新鮮な食べ物が食べたいのです。
今日は、どうしようかな。お、ココナッツミルクの缶詰がある。これは、カレーだな。
S&Bのカレー粉は家にあるし、ニンジン、ジャガイモ、ズッキーニ、大豆の水煮もあるから、今日のお買い上げはココナッツミルクだけ。
めっちゃめちゃ辛くして食べよう。
母親に今日は私が作りますとメールを送っておいて、帰宅後にすぐ料理に取りかかる。カレーは、パパパっとできるのがいいね。できた。お父さん呼んでこなきゃ。
頂きまーす。辛い、汗が出る。
こりゃこりゃ。美味しい、けど、辛い。
本当に美味しいのか?と自問したくなるほど辛い。でも美味しい。美味しいのは間違いない。
ちょっと我慢大会みたいになってきた。
ふ~、ご馳走様。汗かいちゃった。お風呂に入ろう。
土曜日ってステキ。今日が終わってもまだ日曜日がある。
家事は週末にまとめてする。掃除とかアイロンがけとか平日はなかなかできない。
食事は母親と半々で作っている。母親は炊事が嫌いなので、料理するとすごく喜ばれる。私は料理は嫌いじゃない。というか、丸二日外食だとそれだけでしんどい。せめてお昼だけでも自分で作ったものが入っているといいんだけど。超田舎で、外食もせずに育ったから仕方ないかな。なんせ、コンビニまで歩いて45分の僻地に住んでいたから。
さて、掃除すんべ。
クイックルワイパーって便利。でも実は、真のクイックルワイパーは使ったことない。いつも百均のを使ってる。お金持ちになったら、いつかは真のクイックルワイパーを使ってみたいと思っている。
ちょっと親の家に行って、ホットケーキでも作ろうかな。小腹がね。私の家には一切食料品がない。いつも親のキッチンを使ってる。節約、節約。
「あれ?お父さん達どっか行くの?」
「トミ子、今から車屋さんに行ってくるよ。そうだ、トミ子も行くか?」
そうだ、私も車が買いたかったんだった。むしろ、この田舎で車がなくて今までよく生きてたわ。
「うーん、行く。ちょっと待ってて。」
顔も体型も丸いけど、運転上手な母の運転で大手の自動車メーカーに行く。
お店に入ると、やたらキレイなお姉さん達が接客してくれる。無料のドリンクのメニューを手渡される。
「トミ子は何飲む?お母さんは、カプチーノ。」
やたら楽しそう。母はとにかく無料の物が大好き。いやしいのう。
父親は定期点検か何かで来たらしい。父親の用事が済んだらしく、担当の人と一緒に戻ってきた。
「大枝です。よろしくお願いします。」と、丁寧に名刺を渡された。
「今日はお車をお探しとのことで、どういったものをご希望でしょうか?」
「一応、ヴィッ○とデミ○を考えています。乗るだけなので、オプションは最小限でいいんですが、バックモニターとナビは欲しいです。いくらくらいになりますか?それと、納期はいつくらいになりますか?」
簡潔に希望を述べてみた。
大枝さんは実直な笑顔で答える。
「ナビは何種類かありますが、それほど遠方に行かれないのであれば、この一番安いもので良いかと思います。DVDはかなり稀ですが、データが飛んでしまうこともあるのですが、CDであればSDカードにデータを保存しますのでデータが飛ぶことはないと言えます。パープルシルバーであれば、1ヶ月後くらいに入荷予定です。中古車もありますがご覧になりますか?」
なぜか両親もついてくる。
う~ん。あんまり安くない。中古車ってもっと安い感じがしたけど、一台100万円近くする。新車より安いけど、すぐに車検が来るなら…今はエコカー減税もあるし…。う~ん。
「分かりました。他のメーカーさんにも行ってから考えます。」と、言ってお店を出た。
母親は無料で提供されたカプチーノが美味しかったらしく、ご満悦。
父曰く。
「最近は中古車もあんまり安くないな。それだったら新車の方がいいかもしれない。お、中古車屋さんがある。一応寄って行こう。」
父が張り切っている。
「いらっしゃいませ。」
「ヴィッ○とかデミ○はありますか?」
「ヴィッ○はありますよ。こちらです。」
80万か…。これくらいだったらいいかな。
父が、それはそれは楽しそうに担当者と話している。自分の小さな知識をひけらかしてるんだろうなあ。ディーラーさんは、どうでもいいことでも誉めてくれるから。定年後のヒマつぶししてる。
あ、私も聞きたいことあった。
「デミ○はあんまり出ないですか?」
「出ないことはないです。でもヴィッ○の方がよく取扱います。」
ヴィッ○強いな。まあ、この田舎だけの話かもしれないけど。
「ちょっと考えます。」
やっぱりヴィッ○にしよう。もう、けっこう人に聞いたし。壊れにくいみたいだし、遠出することもあんまりないし。よし!
「お父さん、お母さん、私、ヴィッツにする」
「それだったら、もう一回トヨタに行こう。」
「行く。」と、やたら喜ぶ母。この人、もう一杯カプチーノ飲もうとしてる。私には分かるよ。
「ちょっとお父さん、電話してみるから。」と大枝さんに電話をかけ始めた。
「大枝さん、今だったら話せるって。彼はもともと修理をしていた人で、知識が豊富だからね。」と、なぜだか父が自慢げに話す。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」と大枝さんが笑顔で迎えてくれる。
車を買うなんて初めて。
「新車でヴィッ○を買うといくらくらいになりますか?」
「そうですね。概算で180万円になります。」
「お父さん、こちらのカード持ってるからこのポイントも使っていいよ。」
おとうさん!良い物持ってる。いつもはポイントカードとか嫌いなのに。ありがとう。
初めての大きな買い物だから、すごい緊張する。とりあえず言われたところに言われたことを書く。
良く分からないけど、これは仮契約らしい。まあ、これで待ちリストには載ったらしいから一安心。
今日は一日仕事だったな。
「お父さん、お母さんありがとう。疲れたね~。」
「ご飯食べて行こうか。」
「うん」
「回転寿司にしよう。」
え~。回転寿司か。私とは対照的に父と母は楽しそう。回転寿司が好きな夫婦。私も、けっこう好きだけど。
アスペルガー症候群の緒方さんの苦しみと、彼氏がいてもいなくても悩む気持ち。
アスペルガー症候群の話に戻りますね。さっきも言いましたが、アスペルガー症候群の方は人とのコミュニケーションが苦手です。
とはいえ、お仕事をされている方も多いです。ただ、職場で対人関係の問題を抱えている人も多いと思います。
緒方さんはずっと同じ職場なのですが、職場の人との関わりが彼にとって大変なものなのです。職場の上司は休息入院で仕事を休ませて下さったりと、病気にもとても理解がある優しい方だと聞いています。それでも、こだわりが強かったり、新しいことが苦手だったりするアスペルガー症候群の方には通常の業務がとてもしんどいものであることが多いです。」
「人とのコミュニケーション…?」
「アスペルガー症候群の方は個人差は大きいと思いますが、他人の表情が読みにくいと言われています。笑っているのか怒っているのかが分からないと言います。例えば、『バカだな』と言われたとします。それがどういうシチュエーションで言われたかで意味は全く違いますよね。先輩に真剣な表情で舌打ちされながら吐き捨てるように言われる『バカだな』と、恋人同士でじゃれあいながら言いあう『バカだな』は、全く違います。でも、その違いがアスペルガー症候群の人には分かりにくいと言われています。ですから、全てを文面どおりに受け取ってしまい混乱します。
患者さんによりますが、私はできるだけ紙に書いて、筆談とまではいかないにしても、文字や絵にして伝えたいことを伝えるようにしています。アスペルガー症候群の人だけではなくて、発達障害の患者さんにも同じ対応をします。」
「発達障害については…、今日は時間がないので来週にしましょう。」
「岡林さん、一つだけ聞いてもいいですか?」
「はい、何ですか?」
「緒方さんの表情はあれで普通なんですか?」
「あの表情は緒方さんなりの努力の結晶なんだと思います。他人と上手く接するためにあの表情を作っているのだと思います。これは想像ですが、にこやかにしていなさいと子供の時に言われたのかもしれないですね。」
「でも、なんというか、すごく違和感がある表情なんですけど。」
「そうですね。でも、彼も頑張っているんです。」
そうなのか…。頑張ってあの表情を作っているのなら、仕方ないけど…。普通に出会った人がああいう表情をしてたら、ちょっと怖い。
「もう置いてね。」と、どこからともなく市川主任の声がする。
やっぱり正確だわ。超能力って言えるかも、この正確さ。
あ~。
今日もなんだか疲れた。
患者さんと話すのけっこう疲れるなあ。直接患者さんと話したのは岡林先輩だけど。
花金だけど、今日は帰ろう。帰って、お風呂入って、DVD観て寝よ。
こういう時に彼氏とかいればいいんだけど。
彼氏って、いてもいなくても面倒。
彼氏いないと女性として魅力ない感じで恥ずかしい。でも彼氏がいたらいたで気を遣わないといけない。まめにメールしなきゃいけないし、独りでDVD観あさったりできなくなるし。
そういえば、好きになる気持ちってどんなんだったっけ?
関西にいる親友の晶子は、「恋は落ちるものでしょ。好きになろうとして好きになれるわけじゃないし。ボーとしとけば。」と言う。縁あれば千里。待つしかないか。
アスペルガー症候群の緒方さんの説明の前に、精神科の入院について倫理的なお話をちょっぴり静聴。
岡林先輩が説明してくれる。
「緒方さんは、頻繁にではないですけど、休息入院に来られます。」
「休息入院って何ですか?」
「体調がすごく悪くなって入院するわけではなくて、数日から3カ月までの間の期間で入院して休息を取ったり、生活リズムを修正したりすることです。」
「3カ月までっていうのは、何故ですか?」
「入院の形態です。3カ月までは急性期という区分になります。3カ月を超えると回復期という区分になります。急性期の方が、変な言い方ですが、利益は大きくなります。」
利益ないと民間の病院は潰れちゃいますからね。利益も大切。
私もお給料欲しい。できればもうちょっと色が付けてほしいです。
「ついでに精神科の入院の区分について簡単に説明しておきますね。さっきの急性期と回復期というは、単純に入院日数の違いです。
入院日数の違い以外にも入院の形態はいくつかあります。精神科では、任意入院、医療保護、措置入院というものです。
任意入院であれば、言葉どおり患者さんの任意で入院するというもので、患者さんが希望されればいつでも退院できます。
医療保護は保護者の方の同意があれば、患者さんの同意がなくても入院して頂くことができます。患者さんの希望だけでは退院できません。
措置入院は、精神科の医師の2名の同意があれば、保護者・患者さん両方の同意がなくても入院して頂くことができます。もちろん保護者・患者さんの希望だけでは退院できません。」
それって、裏を返せば…。
私の表情を読んだ様に岡林先輩は続ける。
「そうですね。合法的に監禁もできます。倫理という概念を取ってしまえば、病院というのは何でもできるのかもしれません。」
いつものほほ笑みが少し引きつる。
「でも、通常は、人道的に問題のあることを続けることは難しいです。
それでも、一瞬でも歪んだことが起こらないように、特に精神科は気を引き締めていかないといけません。そう思っている精神科は多いのですけど、いろいろと事件もあったせいか、精神科への風当たりはまだ強いです。」
「いろいろな事件って…?」
「職員が患者さんを殴り殺したりとか、作業療法と称して院長の家族経営の工場で働かせていたとか。想像しただけで胸が悪くなります。」
「酷いですね。」
「小説の中の話だと思いたいですよね。」
「そんなところで働きたくないです。」
岡林先輩がいつもの笑顔に戻った。
「そうですね。
でも、医療保護も措置入院も残念ながら必要なんです。
特に躁状態の患者さんは、自分の調子が悪いなんて思わない場合が多いです。自分が常に正しいと思うことが躁の症状の1つなので。でも、躁状態を放置しておけば患者さんも周りの方々もかなり負担がかかります。ですから、強制的にでも入院してもらうことが必要な場合があります。
自分を傷つけしまう人も同様です。
必要な法律ですが、両刃の刃でもあります。
医療保護でも措置入院の患者さんでも、落ち着いたらできるだけ早く任意入院にすることがほとんどです。任意入院にできない患者さんもいるとは思いますが、通常の病院では少ないと思います。
それに、特殊な事情がないのに、退院したいとしきりに訴える患者さんを入院させておくことは難しいです。
ちょっと脱線してしまいました。
アスペルガー症候群の話でしたね。
初めて会う、アスペルガー症候群の人。
監査が終わったころ、岡林先輩が戻ってきた。
「川村さん、今から患者さんのところに行くので、川村さんも来れますか?」
「はい、大丈夫です。」
「今から行くのは、アスペルガー症候群の患者さんです。川村さんはアスペルガー症候群の方にお会いしたことはありますか?」
「ないです。」
普通ないと思うけど・・・。
「アスペルガー症候群の人は、知的レベルは高いですが人とのコミュニケーション能力が低いです。今から伺う緒方さんも対人関係のストレスによる二次的なうつ病の患者さんです。薬はこれだけです。パキシル、ラミクタール、レンドルミン、ロゼレムです。では行きましょう。」
抗うつ薬のパキシル、感情調節薬でうつの再発予防の効果もあるラミクタール、眠剤のレンドルミンとロゼレム。かなりシンプルな処方。1日1回の処方だし、これは飲みやすい。
緒方さんは個室に入院されているため、面会室ではなく、直接個室に伺う。
部屋のドアをノックする。
「緒方さん、今日は新任の薬剤師の川村も同席してもよろしいでしょうか?」
「はい。」
「川村です。よろしくお願いします。」
「緒方さん、入院した時と薬は変わっていません。ですが、簡単におさらいしてもよろしいですか?」
「はい。」
どうしたんだろう。この人、ずっとにやにや笑っている。なんかすごい違和感。気持ち悪い。
岡林さんはゆっくり話す。
「どのお薬がどういう効果の出る薬かご存じですか?」
「はい。パキシルは抗うつ薬、ラミクタールは気持ちを安定させる薬で、ロゼレムとレンドルミンは眠剤です。」
すごい。大正解。
「そうですね。緒方さんは今まで勝手に薬を飲むのを止めたり、量を調節したたり、沢山飲んだりしたことはありますか?」
「ないです。」
「そうですか。特にパキシルというお薬は急に止めると調子を崩す可能性が高いので、主治医の指示に従って内服して下さい。」
「大丈夫です。もうずっと飲んでますから。」
「では、副作用の確認をします。便秘はありますか?」
「ないです。」
岡林さんはしばらく副作用の確認をする。岡林さんが訊いた、便秘、下痢、口渇、ふらつき、たちくらみ、イライラ感、食欲不振、睡眠の乱れについては特に思い当たることはないらしい。
岡林さんはさらに訊く。
「薬は効いている感じありますか?」
「たぶん。効いているんじゃないかと思います。ずっと飲んでますから、これからも飲みます。」
「分かりました。緒方さん、特に気になることはないですか?」
「大丈夫です。」
「ありがとうございました。」
退室して薬局に戻る。最後まであのにやにやとした顔はそのままだった。